3月10日は童謡詩人の金子みすゞさんの命日にあたります。たった26才で服毒自殺をしてしまった彼女。

今までにもドラマ化や映画化されていますが、自殺するに至った原因は彼女が生きた時代では珍しい話ではなかったのかも知れません。

明治36年に生まれた本名テルさんのお家は、母親の妹の旦那さんが大きな本屋を経営しており、その本屋の中国支店を任されて居ました。テルさんが3才の時に父親が亡くなったため一番下の弟は、母親の妹の家に養子に出されました。

その後、本屋に嫁いでいたテルさんの母親の妹が亡くなりそこに母親が後妻として嫁ぎます。

昔は良く有る事でした。兄弟が亡くなった家に嫁ぐ事は普通でした。

母親が再婚したため養子に行った弟とは実の兄弟で有りながら義理の兄弟にもなりました。弟は実の姉とは知らず世間には従兄弟だったと言ってたようです。

10代から詩を書き始め雑誌に投稿もしていたテルさんは、義理の父からの薦めで本屋の番頭格の人と縁談話が出て23才で結婚することになりました。

仕事熱心な夫でしたが女癖が悪く、最初義父の本屋で同居して居ましたがテルさんの弟と折り合いが悪く店を解雇されました。

駄菓子屋を始めた夫は益々女性関係が派手になりテルさんに淋病をうつしてしまいます。

今なら完治する病気ですが時代が違います。テルさんはどんどん病状が悪化し慢性的な痛みに苦しむ事になりました。

二人の間の娘さんが3才の時にとうとう離婚する話が出て夫も了承しました。最初娘の親権をテルさんが持つ事に落ち着いていましたが、途中からやはり親権は渡さないと言い出した夫。

テルさんは親権を自分の母親に渡して欲しいと遺書を残し服毒自殺を遂げました。まだ26才でした。

テルさんの死後50年が過ぎ、金子みすゞの詩が脚光を浴びる日が来ました。

彼女が残した500編の詩に色々な楽曲が付けられたりCMにも起用されたり、教科書にも載る様になりました。

わたしと小鳥と鈴と


「わたしが両手をひろげても、 お空はちっとも飛べないが、 飛べる小鳥はわたしのように、 地面(じべた)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、 あの鳴る鈴はわたしのように、 たくさんなうたは知らないよ。
鈴と、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい。」



しば草


名はしば草というけれど、
その名をよんだことはない。
それはほんとにつまらない、
みじかいくせに、そこらじゅう、
みちの上まではみ出して、
力いっぱいりきんでも、
とてもぬけない、強い草。
げんげはあかい花がさく、
すみれは葉までやさしいよ。
かんざし草はかんざしに、
京びななんかは笛になる。
けれどももしか原っぱが、
そんな草たちばかしなら、
あそびつかれたわたしらは、
どこへこしかけ、どこへねよう。
青い、じょうぶな、やわらかな、
たのしいねどこよ、しば草よ。

彼女の詩は押し付けがましさがない。

けど自分の意見は通す。

他人がなんと言っていようが私はこう思う。

そんな彼女の詩だから今の時代に合うのかも知れません。

そして一方からだけ見るのでは無く反対の立場からも見る視点。全てのものには存在する価値が有ると詠う詩に癒されるのでしょう。


こッつん こッつん
ぶたれる土は
よい畑になって
よい麦生むよ。

朝から晩まで
ふまれる土は
よい道になって
車を通すよ。
ぶたれぬ土は
ふまれぬ土は
いらない土か。
いえいえそれは
名のない草の
お宿をするよ。

たった26年の生涯。女性として苦しんだでしょう。幼い娘を置いて行くのは余程の覚悟だったでしょう。その時代女性が子の親権を持つのはむずかしく夫が娘を迎えに来る日

夫にあてた遺書には

「あなたがふぅちゃんにしてあげられるのはお金であって 心の糧ではない どうか私を育ててくれたように 母にふぅちゃんを預けて欲しい」

と書き残したテルさん。

その願いは聞き入れられテルさんの母親に一度は引き取られますが後年再婚した夫に又引き取られました。

2016年ドラマ放映時、85才になられた娘のふさえさんは「生きてて良かった。親を恨んで無い」とおっしゃってたようです。

テルさんにも届いているでしょうか

大好きな金子みすゞさんの命日によせて